僕が医師になった経緯②:大学編
昭和51年、大学受験の年でした。九州大学医学部を志望していたのですが、担任から「母子家庭なんだから確実に受かるところが良いんじゃないか」としつこく示唆され止む無く熊本大学医学部を受験、合格して下宿先も決めていたのですが、その頃は一期校、二期校の時代で二期校として鹿児島大学医学部も受験し(この頃の鹿児島大学医学部の競争率は確か数十倍だったような)こちらも合格して悩みに悩んだ末、大学に合唱団が無いという理由で熊本大学をキャンセルして鹿児島大学に入学することになりました。実は小学校からずっと合唱をやっていて、NHKコンクールで小学校では九州2位、中学校では全国3位(どちらも現在まで鹿児島県の記録で破られてません)、高校はバスケットに入部したくてペンディングしていたんですが1年の冬から入部しました。大学でもと思い、鹿児島大学本学の合唱団ポリフォニーコールへ入団した訳です(この合唱団も全国2位、3位の常連でした)。入学後は部活一色で医学部での講義にも殆ど行かず代返で済ませていたようなダメ医学生でしたが、部活では3年、4年の時に学生指揮者を務め100人超での音楽を創り上げていてこの頃は音楽三昧でした。4年を過ぎるとさすがに部活も卒業。音楽は一般合唱団で歌っていましたが、実習やポリクリも始まり本業に腰を入れねばということでまあまあ頑張りました。進路に関しては漠然と外科系を希望しており、出来たら将来は無医村や離島で診療してみたいと考えていたものです(Drコトーなんてまだありませんでしたけど)。
国家試験を受けて卒業に当たり、選択肢は2つに絞られました。1つは鹿児島市立病院。学生時代の夏休みに2週間見学実習でお世話になっており、熱心に勧誘していただきました。もう1つは徳洲会、具体的には福岡徳洲会病院だったのですが、ここも学生時代に短期間で研修させて貰い、救急と病院長の人柄と血管外科で活躍されていた姿に憧れました。悩みに悩んだ末、福岡へ。徳洲会病院の研修1年目、そして初めての一人暮らしスタートです。(続く)