僕が医師になった経緯③:研修医時代:米国留学まで

福岡徳洲会病院での研修は戦場の毎日でした。昼間は病棟、手術、夜は救急現場、朝は研修1年目の同期4人で6時から抄読会、7時から研修医全員での抄読会、8時から回診。2日に1回の当直業務。救急の現場では重症外傷、刺傷、交通事故、火傷、脳出血、くも膜下出血、心筋梗塞、重症感染症などなど毎日毎日鍛えられました。一人暮らしを始めたはいいものの自宅に帰宅するのは週に1-2回、ただ寝て風呂に入るだけの毎日でした。まあ、気に入らなかったのは徳田虎男の演説。毎月のように医局会に現れては毎回同じ話の繰り返し、そして選挙となると各病院から炊き出し部隊と称して職員を島の選挙区に長期派遣する。何となく反発する気持ちが産まれてきていた時に、研修を重視する院長と利益追求の虎男の間に確執が生まれ、遂に院長が外科部長への降格人事が。そしてこれに反発した研修医12名のうち半分以上がその年度を持って退職することに。勿論、僕もその一人でした。そんな中拾ってくれたのが鹿児島市立病院産婦人科(周産期医療センター)でした。元々進路を決める際に選択肢の一つだったのですが、リクルートに来られたDrに「新生児外科でも血管外科は扱えるよ」という今考えると何ともいえない助言を間に受けて、郷里鹿児島へUターン。鹿児島市立病院に住み込みでの研修がスタートしました。産科・周産期での研修は本当に忙しいんですけど、徳洲会時代に比較するとまだまだ緩やかでしたが、新生児センターでの研修はさすがに7日間睡眠なしでの勤務があったりでこれはこれで大変でした。自身の結婚もこの頃だったのですが、結納の朝もギリギリまで勤務し、熊本のご実家への到着は(申し訳ない)午後になってしまいました。
市立病院での研修3年目にアメリカカリフォルニア州のロマリンダ大学の周産期バイオロジー教室へ留学させていただき、1986年8月から1988年11月まで米国の地での生活となりました。1985年に息子が誕生していたのですが、その冬に特発性血小板減少性紫斑病という難病を発症し、入院や内服治療を繰り返していた時期でしたが思い切って留学することにしました。サンフランシスコ到着時に機内に薬を忘れたことに気付き、この時はもう必死になって喋って何とか取り戻すことができたのも今でも冷や汗もので思い出します。その長男の病状は米国到着直後に悪化し、保険も無かったので教室の主任教授や直接のBossからはカウンティーホスピタル(チャリテーホスピタルみたいな所)へ行けと指示されて行ってみたはいいものの数時間待ち、採血の結果は最悪ですぐ臓器内や脳内に出血してもおかしくない状態と伝えられましたが、入院は無理と告げられ途方に暮れていた時にUCI(カリフォルニア大学アーバイン校)に留学されていた東北大学の遠藤先生とその大学で産科の教授をされていた村田先生から連絡いただき、「どうせダメなのなら俺のとこに来てしばらく過ごせ」と言われ、遠藤先生に100kmをお迎えに来ていただき週末を村田教授のお家で過ごさせていただきました。地獄に仏とはこのことで本当に有り難かったです。その日曜日、ロマリンダ大学から村田教授のところへ、息子のことをチャリティーケースでロマリンダ大学小児科で面倒見るからと連絡があり、また引き返して入院、日本ではまだ行われていなかった大量グロブリン投与法で劇的に改善、治癒しました。この時に説明してくれたのは女医さんだったのですが、「今、部長は新婚旅行で海外に行ってるので代理で説明します」と言われて、治療が奏功して退院できるという時にその部長が帰国して説明してくれました。その話しの中で「僕も日本人のDrの友人がいるんだよ。こちらで一緒に研修した仲間なんだ。今は日本の南の方のえーと何だっけなー」と言われたので「九州?」と尋ねたら「Yes」、「鹿児島?」、「だったかな」、「もしかして⚪︎⚪︎Dr?」、「YES! YES!」。何と息子が日本で治療を受けていた鹿児島市立病院小児科の部長でした!何もわからない広いアメリカに来て途方に暮れていた時に、何て世界は狭いんだ!とびっくりした一場面でした。なお、息子はこの一回の治療で完治しています。
アメリカでは羊の胎児の低酸素実験を行っていました。妊娠羊を開腹し子宮を切開して胎児の脳波電極や心電電極を取り付け、気管や動脈にカテーテルを留置した後に子宮を縫合、閉腹し、その後母体胎児の血液ガス、心拍、血圧、呼吸運動、脳波を測定して行きます。落ち着いたところで母体に低酸素状態(頭にバッグを被せて低酸素ガスを吸わせる)に持っていったり、母体の血液を薬物で酸素運搬能を低下させた状態を作ったりして胎児の低酸素状態を作成してその時の変化を測定していました。この時代も結構ハードワークでしたね。夜中に出て行ったり、土日休日も無く働いていました。かなりの数の実験をこなし、2年3ヶ月の間にたくさんの結果を得て、Bossはこの期間の成果だけで7編の論文を作成していました。僕も1編だけファーストオーサーで書かせていただきましたが、アメリカの産科婦人科雑誌では受け入れてくれず、それを世界的に有名な「Physiology」という雑誌に提出したところ受け入れてくれて掲載されました。掲載されたのは帰国後半年過ぎくらいでしたが。

とにかく手術、実験の繰り返しデータまとめで忙しく遠出がほとんどできなかったのですが、帰国前の夏にこれらのデータを人質にBossに「2週間夏休みくれる?」と交渉したところBossは目を丸くしながら「OK」と言ってくれて、そこからマイカーでの旅行プランを立てて、7月に大陸縦断の旅に出かけました。この頃には長女も生まれて半年くらいでした。炊飯器を積んで自炊しながらネバダ州、ユタ州、アイダホ州、モンタナ州と進みカナダのカルガリーへ。カルガリーでは高校の友人にお世話になりました。そこからバンクーバーへ移動し、ワシントン州、オレゴン州、そしてサンフランシスコへ。サンフランシスコ直前の山の中で車がエンストし、そこからは傾斜で降りを移動したりだましだましながらサンフランシスコへ。すぐ車の修理工場へ向かい一晩でなんとか修理(ラジエータのパイプ破損でした)、翌日無事出発して自宅へたどりつきました。この旅で感じたことはとにかくアメリカは広大であること、何とモンタナ州の高速では1回も車とすれ違いませんでした。こんな国と戦争するなんて昔の日本は本当に無知か無謀だなと感じ入りました。勝てるはずがない。
いよいよ帰国、米国滞在時代はとても快適で、帰国したくないというのが本音でした。周りにしがらみがなく自由、人と人との空間がゆったりしている、本当にこのまま住んでみたいと思っていました。でも帰らねば。ということで1988年11月に帰国の途につきました。(続く)