僕が医師になった経緯④:周産期医療から生殖医療へ
1988年11月に米国留学から帰国。鹿児島市立病院産婦人科医局へ帰還しました。がっ!給与を貰える研修医の枠が無い!ということで近隣の産婦人科病院の職員として採用していただき、その病院での平日週2回の当直と月土日2回の当直で給与をいただき、平日は市立病院で勤務という生活が始まりました。でもあの頃、市立病院の当直も週2ペースでやってたんだけどその当直料はどこへ消えてたんだろう?今だに謎です。そんな生活が1年ちょっと続いた後、スタッフの先輩の先生が開業で退職され、その席が空くのでそこに収まってはという話が出てきました。ただ、その先生が不妊診療担当だったの不妊を専従にやってくれるという条件が事務局から出されました。まあ、あと二人不妊をやっている研修医の先輩の先生もいるししばらく腰掛でやってみたらいいよということでその話を引き受けることに、ここで目出度く鹿児島市の職員としてようやく採用されました。ところが!まもなくしてその二人の先輩も開業される(実家継承)ということで急に辞めることに。何と、不妊グループ(一人しかいない)の長になってしまったのです。そこからが大変でした。とにかくまず勉強勉強、未知の世界へ突入。そして一人で学会へどんどん出掛けて、手当たり次第著名な先生方へ突撃。そうやって徐々に知識と人脈を拡げて行きました。元々人見知りなものでそれはそれは勇気が要る作業で、その時期に少し経験値が上がりましたね。一緒に仕事をしてくれる同期の先生も一人ヘルプしてくれたりして、また培養は先に辞められて開業した先生のところの培養を手がけてくれてる方がヘルプに入ってくれたりして。だんだんと患者さんも増えてきて、妊娠例も出てきました。そうやって続けいた時に部長(院長)から東京のさる有名な伝統芸能の継承者が子供ができないということで鹿児島までお連れしてきて、何回か診療させていただきました。遠方なのでその後は電話とかでのアドバイスだけでしたが目出度くご懐妊。無事長男を出産されました(このご主人、現天皇のご友人でした。またこのご縁で一度皇室の方から時間を決めてお電話いただきご相談受けたこともありました)。この件のご褒美という訳では無いのですが、院長から「採卵、培養のための部屋と機械、器具、内視鏡手術の機械を設置購入してあげる」というお約束をいただいたのです。(それまでは分娩室で採卵、ひどい時は流産手術をしてたりお産してる隣で採卵したりしていましたし、培養の部屋も分娩室のすぐ横にパーテーションで区切った狭い部屋でした)院長はその直ぐ後に食道癌を発症され、半年後に亡くなられましたが亡くなる前に「約束は果たすから」と仰っていただき、鹿児島市立病院に本格的な採卵・培養室とそのための設備、手術室に内視鏡関連の機械、器具を揃えてもらいました。ここから培養士も一人雇って、後輩も一人、二人、三人と増えて本当に不妊グループが出来上がりました。この頃一番勢いがありました。腹腔鏡、子宮鏡手術件数もどんどん増え、体外受精の件数もうなぎ上り、学会での発表も数多くやっていました。でもなかなかその状態は続かず、後輩の一人が開業したいと言い出し、もう一人も開業するとのことで一人減り、二人減りでとうとう医師二人と培養士のみに。うーん、この先どうしよう?って色々迷いが出てきた時期でもあります。これが1999年始めの頃のことです。(続く)